第4回「忘れられない看護エピソード」入賞作品発表!

看護職と患者さんのふれあいの中で生まれた心に残るエピソードが、今年は3,422件寄せられました。その中でも優れた作品を朗読した動画を公開します。あなたの心に残るエピソードを是非「いいね!」で広めてください。

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最優秀賞

看護職部門

舞い降りたご主人
豊﨑 幸子さん・愛媛県

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一般部門

背中をポンポン
河上 知子さん・広島県

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内館牧子賞

看護職部門

歩けない看護師でも
安達 千代美さん・兵庫県

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一般部門

身をもって・・・
田中 由美さん・福岡県

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優秀賞

看護職部門

ひと部屋の明かり
悉知 園子さん・東京都

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1分間の面会
三浦 ひとみさん・大阪府

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ウックン、ウックンお乳のように
西山 禮子さん・岡山県

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一般部門

赤ちゃんを天国に見送った日
楠本 由香里さん・東京都

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最後のおやつ
槇 尚子さん・東京都

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関森 小都歌さん・京都府

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入選

看護職部門

泥だらけの免許証
吉田 佑美子さん・岩手県

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Aちゃんからもらった魔法の笑顔
土屋 操さん・長野県

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私の天使
久米 淳子さん・愛知県

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16歳の母
矢吹 浩子さん・広島県

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耳元で感じたやすらぎ
古泉 サト子さん・徳島県

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一般部門

指切りげんまん
斉藤 五百子さん・北海道

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見える優しさ 見えない優しさ
井上 庸子さん・京都府

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豪快な看護
小嶋 美恵子さん・大阪府

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笑って暮らしているよ
澤野 真寿美さん・大阪府

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「内緒の注射」は思いやりの言葉
花澤 かおりさん・兵庫県

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「看護の日・看護週間」

毎年5月12日は「看護の日」。そして、12日を含む週の日曜日から土曜日までが「看護週間」です。
近代看護を築いたフローレンス・ナイチンゲールの誕生日にちなんで、1990年に制定されました。
「看護の心をみんなの心に」をメーンテーマに、厚生労働省と日本看護協会が中心となって、気軽に看護にふれ
られる楽しい行事を、全国各地で開催しています。

「忘れられない看護エピソード」

「看護の日」事業の一環として、看護を通じて得られた忘れられない思い出やエピソードを、看護する側
(看護職部門)と看護を受ける側(一般部門)の双方から募集し、優秀作品を表彰・発表しています。
第1回(2011年)以来、たくさんのご応募をいただき、第4回は3,422通の作品が集まりました。

主催:
厚生労働省、日本看護協会
後援:
文部科学省、日本医師会、日本歯科医師会、日本薬剤師会、全国社会福祉協議会
協賛:
日本病院会、全日本病院協会、日本医療法人協会、日本精神科病院協会、全国自治体病院協議会、日本助産師会、日本精神科看護協会、日本訪問看護財団
テルモ(株)、東洋羽毛工業(株)、パラマウントベッドホールディングス(株)
(株)アンファミエ、 (株)ソシエ・ワールド、ナガイレーベン(株)、ワタキューセイモア(株)

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舞い降りたご主人
豊﨑 幸子さん・愛媛県

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 最優秀賞
舞い降りたご主人
豊﨑 幸子さん・愛媛県

 その日はHさんにとって、人生3度目の手術の日だった。私は、手術の準備をするためにHさんの部屋を訪ねた。Hさんの表情は穏やかだったが、雰囲気から緊張が伝わってきた。ふと私の口から「Hさん、癒されグッズってありますか」という言葉が出た。「癒されると言えば…」。天井を見たまま、Hさんはつぶやいた。そして、静かに枕元に置いてあったバッグに手を伸ばし、中から紺色の石のブレスレットを取り出した。

 「これ、主人がいつも腕に着けていたものなんです」「まあ、すてきですね。じゃ、これを手首に着けて手術室に行きましょう」「手術室の看護師さんからは、何も身に着けないで来てください、と言われています。いいんですか?」「手術台に横になったら外さないといけませんが、それまでは大丈夫です。手術室の看護師には私から話をしておきます」

 Hさんは「うわぁ、ありがとうございます」と、うれしそうに左手首にそれを着けた。Hさんのご主人は先日、急性心筋梗塞で亡くなられた。「携帯持った?」「うん、持った」。出勤するご主人の後ろ姿に語り掛けたのが、最後に交わした言葉だったそうだ。ご主人はこれまでのHさんの手術全てに付き添い、支えてくださっていた。Hさんにとっては、度重なる手術、それだけでも不安である。それなのに今回は夫として、そばにいてあげることができない。そんなご主人の思いも伝わってくるようだった。

 手術室に入室した。横になり、体位を整えてから、Hさんはブレスレットを外した。「ありがとうございました」Hさんの表情は、とても落ち着いておられた。手術室の看護師の配慮で、ご主人のブレスレットは、Hさんのファイルの上にそっと置かれた。

 手術は予定通り終了した。後日、Hさんは、「麻酔からうっすら目が覚めて、気が付くと、すでに左手首にブレスレットを着けてくださっていました。とても、ほっとしました」と言われていた。

 今でも不思議に思う。なぜあの時、突然「癒されグッズってありますか?」と尋ねたのか。ただ、これまでにない「愛の力」を感じたことは間違いない。私はご主人から、思いを託されたのだと思った。感じたままを言葉にして伝える。私がいつもベッドサイドで行っている、何気ないコミュニケーションだ。あの時、何も飾らない自然なその空間に、確かにご主人はいた。

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歩けない看護師でも
安達 千代美さん・兵庫県

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 内館牧子賞
歩けない看護師でも
安達 千代美さん・兵庫県

 ある日突然右目が見えなくなり、手足がしびれ、多発性硬化症と診断された。その後も看護師を続けていたが、発症から3年後、大きな再発で長期入院を余儀なくされた。泣き叫んだこともあるほどつらいことのほうがはるかに多い入院生活で、看護師の言動に一喜一憂し、何気ない気配りや言葉が心に染みた。

 歩けないという感覚が理解できず、ベッドから落ちたことも何度かあった。そんな時、「勝手に動かないで」「何で呼んでくれないの」などと言われると、どうすることもできない悔しさと申し訳なさでつらさが増した。ある朝、ベッドから落ちた私に「ごめんね、びっくりしたね。怖かったでしょう。つらかったね」と、一言も否定せずに抱きかかえてくれた看護師の言動に、心からホッとした。そして、私なら患者さんにこんな言葉掛けができるだろうかと、自分の看護師としての言動を振り返っていることに気付いた。

 寝たきりになり、食事も排せつもベッド上、病室から出るのはリハビリの時だけという頃、その帰りに毎回、当然のように洗面所へ連れて行ってくれる年配の看護師がいた。流水で手を洗えることにすごく喜びを感じた。また、病室の外で声を殺して泣いている母に寄り添ってくれている新人看護師に、感謝の気持ちでいっぱいになった。このような看護に触れたことで、寝たきりでとても看護師復帰なんて望めないと思う半面、可能ならもう一度、看護師として働きたいという思いも強くなった。

 8カ月の入院後、在宅医療、訪問看護を受けながらリハビリを続け、3年間の休職を経て、車椅子ながら看護師としての復職がかなった。

 退院調整看護師として13年目を迎えた今も、再発の不安におびえながら治療を継続している。「歩けない看護師なんて」という批判の声も耳にしたが、病気を経験したからこそ分かる不安や焦り、いら立ち、喜びなど、患者さんやご家族の思いに寄り添える看護師を目指して、病院中を車椅子で走っている。

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ひと部屋の明かり
悉知 園子さん・東京都

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 優秀賞
ひと部屋の明かり
悉知 園子さん・東京都

 ただ待っているだけだった。小さいいのちが自ら流れ落ちることを。誰もがそれが最もいい選択だと思っていた。

 いつものように早朝の5時、深夜勤の3回目の巡回をしていた。外はまだ明けるには早かった。個室の前を通りかかると、明かりのついている部屋が一つ見えた。

 その部屋には、妊娠中期に入ったばかりのAさんがいた。破水が起こり、医師から「このまま胎児が順調に育つことは無理でしょう」と話があった方だ。ただ陣痛が起こるのを待つだけだった。私は部屋から漏れる明かりの意味を知りたくて、全ての患者さんを巡回してからまたその部屋に戻りノックをした。

 Aさんはベッドに横になっていた。早くこの状態が終わってほしいのではと私は考えていた。しかしAさんはこう言葉を発した。「お腹の赤ちゃんって今、元気でしょうか」と。Aさんはなるべく静かに動いていた。赤ちゃんを気遣うように。私ははっとした。

 私はAさんと胎児の心音を聴いてみることにした。すると、力強くドンドンドンと心音が聴診器から聴こえてきた。元気だ! 破水してから1週間たっているのに、こんなに元気だ。母体も問題ない。赤ちゃんは生きたいのだ。

 朝、すぐ医師にAさんの状態と意思を伝えた。その後、検査などを終え、受け入れ先が見つかり大学病院へ搬送となった。妊娠末期に入り、赤ちゃんは無事に産まれたとのことだった。

 その後しばらくたってから、Aさんが病棟に赤ちゃんと会いに来てくれた。きらきらした瞳。あの日、部屋の明かりの意味を探らなかったら、この子は今いなかったのかもしれない。私は看護をする中で、いつも一つ一つの意味を考えているだろうか、あの部屋の明かりのように…。

 忘れてはいけない「看護の心」を深く刻みつけたその赤ちゃんの誕生日には、写真付きメールが毎年届く。

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1分間の面会
三浦 ひとみさん・大阪府

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 優秀賞
1分間の面会
三浦 ひとみさん・大阪府

 ピッピッピッ…。詰所の隣の病室で、時々途切れながら心電図モニターの音が響いている。


 30年前、新人看護師(当時は看護婦)だった私は、血液内科病棟に勤務していた。不規則なモニターの主は19歳の少年だった。少年は急性骨髄性白血病で入院しており、もう目を開けることも言葉を発することもなかった。

 その日、40歳ぐらいの女性が詰所に飛び込んで来た。「息子に会わせてください」と何度も叫んだ。少年の母親だった。

 少年は意識がある頃「僕を捨てた母親にはもう会いたくない。もし、僕を探して面会に来ても断ってください」と言っていた。幼い頃生き別れたその母親が、今、すぐ近くに現れたのだ。

 私たちは迷った。病室に確認に行っても、意識のない少年から返事はなかった。息子が生きている間に一目会いたいと願う母親…。母親には一生会いたくないと言っていた少年…。私たちは、そのどちらの気持ちも踏みにじることはできなかった。


 私たちは、少年の言葉をそのまま母親に伝えた。そして、白い予防衣とマスクを母親に着けてもらい、「看護婦のふりをして、1分間だけ脈を測って来てください。決して声は出さないでください」と言って、少年の病室に案内した。母親は約束を守ってくれた。震える手とこらえきれずにこぼれた涙が、そっと少年の手首に触れた。1分間の沈黙が続く。その時、少年の指がかすかに動いたように見えた。

 それから数日して、少年は天国へ旅立っていった。


 30年がたった今でも、時々あの日のことを思い出して、あれで良かったのだろうか…と考えさせられる。

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ウックン、ウックンお乳のように
西山 禮子さん・岡山県

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 優秀賞
ウックン、ウックンお乳のように
西山 禮子さん・岡山県

 ウックン、ウックン、ママのお乳を飲むようにA子ちゃんはメロンの滴を飲んだ。それは50年前の夏のことだった。

 A子ちゃんは5歳。白血病治療のため、遠い沖縄県から兵庫県の病院に入院していた。当時、私は看護学生でA子ちゃんの病棟で実習していた。小児科実習を終え、次の内科病棟にいた時、ママが息を切らして来られ「西山さん、A子はここ1週間、熱で何も食べていないのよ。今日、メロンを買ってきたら『西山の看護婦さんと食べたい』と言っているので、どうかお願いします」と言って、ためらう私を引っ張って小児科病棟に連れて行った。「一緒に食べてやってください」と懇願され、その雰囲気の中で私は覚悟を決めてA子ちゃんとメロンを食べることにした。メロンの滴を小さなお茶碗にためてはひとさじずつゆっくりとA子ちゃんの口に運んだ。A子ちゃんは全身の力でそれを受けた。時折ジッと私を見て「カンゴクさんも食べて」と血のにじんだ乾いた唇で言った。私はとうとうメロンの一切れを食べてしまった。ゆっくりと時間が流れていき、A子ちゃんは最後の1滴をウックンと飲んで「カンゴクさんありがと」とかすかな声で言った。その翌日、A子ちゃんはママに抱かれて小さな命を閉じたのだった。

 私は〝患者さんから物をいただくのは厳禁〟という鉄則を犯してしまった。看護倫理に背いたことで悩み、先生に相談した。先生は「切羽詰まった時、A子ちゃんとメロンを食べるという自分自身の良心を行使したまでのこと。それは看護倫理に背くものではありません」と諭してくださった。先生の影響もあって、私は看護科教員の道を選び、37年間生徒たちを育んできた。

 私は今、69歳。郷里の精神科病院でリスクマネジャーをしている。病院ではかつての教え子たちが生き生きと働き、地域医療をけん引している。私の心の中にはA子ちゃんの〝ウックン、ウックン〟が今も生きている。

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泥だらけの免許証
吉田 佑美子さん・岩手県

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 入選
泥だらけの免許証
吉田 佑美子さん・岩手県

 採用試験の時、あなたはあの免許証を差し出して言いましたね。「震災で家が漬かり、やっと見つけた免許証です。泥だらけですみません」

 平成23年5月の面接でした。「石巻で被災した学生が転校してきて、働く所を探しています。引き受けてもらえないでしょうか」と学校から依頼があったのです。緊張気味の彼は、風貌は現代っ子ですが、どこかおどおどして見えるひ弱な雰囲気でした。でも彼の眼差しは、真っすぐ前を見ており、差し出した准看護師の免許証は、洗って乾かしたのが一目で分かる泥の染み付いたしわだらけのものでした。

 「何とか看護師になりたいので、頑張ります」「震災でご家族の方は、ご無事だったのですか?」「はい、家は天井まで津波に漬かりましたが命は助かりました」「この免許証よく見つけ出したわね」「はい、早く働いて家族を安心させなくてはと必死でした」「あなた方に見つけてもらったこの免許証、再発行しないで残しましょう。きっと将来あなたが仕事を続ける上での大切な宝物になる気がしますよ」

 3年の月日が過ぎ、もうすぐ卒業です。先日、彼とちょっと立ち話をしました。「卒業したら石巻に帰るのでしょう」「良かったら、あと2年くらい働かせてもらえないでしょうか?」「あらっ、それはどうして? みんなが待っているんじゃない?」「でも看護師になれたら、看護師としての仕事を覚えて地元に帰りたいのです」「それはうれしいことです。勉強したいことがあったら何でも言ってね」

 彼の評判はすこぶる良いのです。患者さん、同僚、先輩、後輩からも頼られ、今では当院の貴重な人財です。そんな彼があと2年も働いてくれるなんて、なんとうれしい話でしょう。

 分かっています、彼の本当の気持ち。きっと彼は、採用時の恩義を感じ、そのお礼を果たしたいと思っているのだと。彼を、泥だらけの免許証に恥じない立派な看護師に育てたいと思います。

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Aちゃんからもらった魔法の笑顔
土屋 操さん・長野県

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 入選
Aちゃんからもらった魔法の笑顔
土屋 操さん・長野県

 わが家の長女が成人式を迎えた。きれいに化粧をし、華やかな着物姿。私には着物姿を見ると、思い出す人がいる。3歳だったAちゃん。

 Aちゃんのママは乳がんで、がんは肺に転移していた。乳房の外側にカリフラワー様の塊が多数あり、所々出血している状態だった。Aちゃんは週末になると、ママの所へやって来る病棟の人気者だった。あどけない笑顔に癒やされる半面、ママとAちゃんの間にあまり時間のないことをスタッフの誰もが察知していた。Aちゃんは、「今度お着物着るの」と七五三を楽しみにしていたが、ママは気分の優れない日がだんだん多くなった。「もしかしたら間に合わないかもしれない…」口には出さないものの、スタッフ誰もが同じ思いだった。私もAちゃんの前では笑顔で看護師を演じていたが、「残された時間」と「Aちゃんの七五三」に時間のズレがあることを感じていた。「間に合わない。だけど…そうだ、少し早い七五三をしよう!」

 10月、ピンクの着物を着て、薄く化粧をしたAちゃんは、にこにこ顔でママの所へやって来た。殺風景な病室は、画用紙で切り抜いた花や昆虫の絵を飾り付けし、撮影スタジオに変化した。スタッフとジュースで乾杯をした後、Aちゃんは、はにかみながらパパのカメラの前で、ママに抱かれ、3歳の女の子になった。なんのポーズも声掛けも必要なかった。

 あの時の魔法の笑顔! 絶対に忘れない! 魔法の笑顔が、Aちゃんとスタッフの思いを一つにしてくれた。Aちゃんは「今行うことの大切さ」と「時間の大切さ」を教えてくれた。ママは11月の七五三を待たず、旅立った。

 その後、偶然外来でパパに会った。「入院中は本当にありがとうございました。皆さんと撮った写真が宝物になっています」という感謝と、「今度いつ病院へ行くの? 病院に行けばママに会えるんでしょう?」というまだ3歳のAちゃんの家での様子を聞き、目頭が熱くなった。

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私の天使
久米 淳子さん・愛知県

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 入選
私の天使
久米 淳子さん・愛知県

 「な~に、これ!! 」。病棟に響く看護師の声。巨大なうんこが廊下に落ちていた。犯人は、明白だ。25歳の睾丸腫瘍末期の銀ちゃん(仮名)だ。時々彼は、廊下に脱糞する。銀ちゃんには、知的障害がある。父親は、口癖のように言う。「銀太が選んだ道。死んでも仕方ない」。私は、呪文のように繰り返される父親の言葉を聞きながら、やりきれなくなっていた。「知的障害のある銀ちゃんに治療の選択ができたのだろうか? 」

 彼のご両親は、看護師に銀ちゃん用のお小遣いを託し、面会にはほとんど来なかった。

 銀ちゃんの全身状態が悪化した。私は、寂しがり屋の銀ちゃんを個室に移し、彼のご両親にお願いした。「もう時間がありません。どうか少しでも長く銀ちゃんと一緒に過ごしてあげてください」。銀ちゃんのご両親は、承諾してくれた。その時初めて知ったのだが、彼の母親は、先天的な障害で体が不自由だった。両親が付き添ってくれることを知り、銀ちゃんはとても喜んだ。「ありがとう。ありがとう。お母さん、ほんとにいいの? ごめんね。ごめんね。迷惑かけて。ありがとう」。お母さんは、ほほ笑みながら答えていた。「何ばかなこと言ってんの! 迷惑なんて、考えたことないよ」。私は、その時初めて気付いた。ご両親は、銀ちゃんの衰弱していく姿を見るのがつらくて面会に来られなかったんだって。

 銀ちゃんは、天使だった。彼の最後の日は、確実に近づいていた。銀ちゃんは、どんなに苦しくてもつらくても「売店に連れて行って」と看護師たちに懇願した。売店に行くと、「このお弁当はお父さんが好きなの。このおすしはお母さんが好き。このお菓子はお姉ちゃんの子どもに買ってあげる」と言っては、買い物を繰り返した。自分はもう食べられないのに、自分の愛する人たちへのプレゼントを続けた。彼は愛する人たちに囲まれ、25歳の生涯を終えた。

 私は、初めて天使に出会った。

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16歳の母
矢吹 浩子さん・広島県

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 入選
16歳の母
矢吹 浩子さん・広島県

 彼女は妊娠8カ月。お昼前の産婦人科外来の白っぽい日射しの中で、髪は金色、上下ピンクのジャージ姿だった。大丈夫かなと誰もが思ったことだろう。指導に対してまともな返答は返って来ない。でも無事に女の子を出産。皆、胸をなで下ろした。

 子育ては生活だ。眠ること、食べること、育児すること、全てのことを伝えたいと思ったが、説明だけでは足らないとも感じていた。あなたのことが大切なのよと丁寧に伝えたかった。

 そんなある日、沐浴を終えて赤ちゃんを彼女の元に連れて行った時、声を掛けられた。

「いいね」

「ん、何が」

「助産師なんじゃろ」

「そうよ」

「そうゆうの。看護師とか助産師とか」

「そうかな」

「うん、そうゆうの、私もやりたかった」

 思わず涙が出そうになった。そんなふうに見ていてくれたのかとうれしくて、でもそんなストレートな気持ちを実現する前に、一人の子の母になったこと。子どもを授かることは貴いことだ、でも彼女は、本来、高校1年生だ。

 「今からでもなれるよ」と説明したものの、彼女は1年後、第二子出産のため入院した。どうか何ごともなく、迷いながらでも子育てを順調にしていてほしいと思っていたが、少女は少なからず母になっていた。そして若い夫婦になっていた。

 第二子は男の子、新生児聴力検査で「要精査」となった。大学病院の受診を説明した後、照明を落とした暗い廊下で、若い父親はその子を抱いて、「絶対治してやる」と言った。また泣きそうになった。複雑な背景はあるけれど、丁寧な言葉のやりとりが心を動かしてゆく。若い夫婦がうらやましかった。

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耳元で感じたやすらぎ
古泉 サト子さん・徳島県

第4回「忘れられない看護エピソード」
看護職部門 入選
耳元で感じたやすらぎ
古泉 サト子さん・徳島県

 男性の息が和らぐのが分かった。私の肩にもたれて眠っている70歳代の男性は、がんを患い大学病院で治療を受けていたが、車を運転すると疲れるようになり、地元の総合病院に通院するようになった。がんはすでに肺や骨に転移していた。胸水によって呼吸がしづらくなったため入院し、2、3日おきに胸水を抜くようになった。700mlくらい抜くと楽になり、その夜はよく眠れていた。

 胸水は抜いてもすぐにたまり、楽に過ごせる時間が短くなってきた。管を入れ続けて、抜くようになってからも、息苦しさと倦怠(けんたい)感が強かった。使い始めたモルヒネが速く効いてくれますようにと祈った。

 男性は横向きになったりオーバーテーブルにもたれたりして、楽な体勢を見つけようとしていた。家族は脇腹から出ている太い管や血性の胸水を見て、近寄れずにいた。私は男性の左隣に座った。男性の上体を引き寄せてみたものの、正直なところ楽にさせてあげられる自信はなかった。ところが引き寄せるやいなや、私の肩に男性がもたれてくれた。「いかり肩で、しかも肉付きが薄くてすみません」と心で謝った。やがて男性は眠り始めた。前に傾くと私も前のめりになり、左右に揺れるとそれに合わせて動いたため体勢が崩れることはなかった。私は33年前のある光景を思い出しながら、男性の息遣いに気を配っていた。

 私の父は胃がんで亡くなった。私が高校生の時で、家から一番近い病院に入院していたが、なかなか面会に行けなかった。たまに行っても少し離れたところに座っていた。鎮痛剤を頻回に注射するようになってきたある日、病室のドアを開けると、父が11歳年上の私の姉に寄りかかって、座ったまま眠っていた。

 患者さんが苦しい時、あの日の姉のように患者さんに直接寄り添いたいと思っていた。ずっとできずにいたが、看護師になって25年目にして初めて行えた。

 「誰か看護師さんと代わろうよ」。息子さんの言葉が静かに耳に入ってきた。

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背中をポンポン
河上 知子さん・広島県

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 最優秀賞
背中をポンポン
河上 知子さん・広島県

 夕食後、息子は「お母さん、しんどい」と言ってきた。振り向くと、横になった息子の体が、ゆっくりと反っていった。次には全身がガクガクと動いた。ひきつけを起こしたのだ。病院へ着くまで、そして治療が終わるまで、7回もひきつけた。処置室から出てきた息子は、穏やかな寝顔に戻っていたが、そのまま入院することになった。

 翌朝、目覚めた息子は、一変した姿を見せた。日焼けした顔や転んで擦りむいた膝の傷は、昨日の息子と変わらなかった。しかし、私と目を合わすこともなく、言葉も失って、ただベッドに横たわっていた。声を掛けても、頭や手足を動かすだけだ。私たちは異質な世界へ放り込まれたのではないかと、目の前の状況を疑った。

 医師は夫と話していたが「大変だ」とつぶやいて病室を去った。その言葉が、私の涙腺のふたを外した。そこから何日泣き続けただろう。点滴を受け続けている息子の頭をなで、手をさすり、食事の介助をし、泣き続けた。泣いても泣いても心が軽くなることもなく、涙が枯れることもなかった。食べなくては駄目だと夫に言われて、買ってきてくれた巻きずしを泣きながら口に入れた。

 その時の私へ声を掛ける人はいなかった。声を掛けることができなかったのだと思う。ところが、私の背中をポンポンとたたく人がいた。40歳前後の看護師だった。血圧の測定をして、ポンポン。点滴液を交換して、ポンポン。検温に来て、ポンポン。このポンポンが、いつの間にか優しい励ましの言葉に聞こえていた。反対に、「あなたは母親よ。しっかりしなさい」と叱咤(しった)の言葉にも聞こえ、少しずつ心を落ち着かせることができた。

 あれから32年。36歳になった息子は、元気に障害者施設へ通っている。振り返れば、今まであの看護師のポンポンを何度も背中に呼び戻して生きてきたように思う。

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身をもって・・・
田中 由美さん・福岡県

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 内館牧子賞
身をもって・・・
田中 由美さん・福岡県

 「娘から、尻に指を突っ込まれた~!!」

 主人が笑顔でそう語った言葉は永遠に笑い話として語り継がれることであろう。


 末期の大腸がんだった。主人は少しでも自宅で家族と過ごしたいと願ったので、在宅医療をすることに決めた。往診の先生、訪問看護師さんの協力の下、主人はつらくて幸せな時間を過ごすこととなった。

 何より心強かったのはわが家の新米看護師さんの存在である。長女は看護学科の1年生。まだまだ勉強を始めたばかりで看護について何の知識もなかった。それでも自分の血圧計で父親の血圧を測り、顔色を見る。そして訪問看護師さんへの報告が日課となった。

 ある日、往診の先生が来られた時のことである。主人はお尻の痛みを訴えた。直腸の入り口に腫瘍ができているために痛いらしい。娘が看護師を目指していると知っていた先生は触診をされ、「ほら!! あなたもゴム手袋をつけて!! 人差し指を入れて、時計回りに3時から6時。 6時から9時の方向に回してみて。そこに固いところがあるでしょう? それが腫瘍です」と説明した。びっくりしたのは娘と私。そして何より主人本人である。後に、お見舞いに来てくれた親戚や友人にうれしそうに語っていたその笑顔を今でも忘れられない。


 この数カ月、娘は学校や病院実習でもできないような貴重な体験をさせてもらった。きっと主人は身をもって学ばせてくれたのだろう。父親の死を無駄にしないためにも、娘は素晴らしい看護師さんになってくれると信じている。


 私は主人が生きた証をここに残したい。そして伝えたい言葉がある。

 「今までありがとう。これからもずっと一緒だよ。見守っててね」。

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赤ちゃんを天国に見送った日
楠本 由香里さん・東京都

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 優秀賞
赤ちゃんを天国に見送った日
楠本 由香里さん・東京都

 結婚して7年が過ぎ、流産を乗り越え、待ちに待った妊娠。安定期に入り、お腹をポンポンと蹴る赤ちゃんがいとおしくてたまらない日々が続いていました。明日から妊娠7カ月に入るというその日。まさかとは思いましたが、私の赤ちゃんがお腹の中で亡くなっていたのです。

 一晩で何とか心の整理をつけ、入院。ほとんど眠れないまま夜が明け、翌朝、陣痛促進剤を打ち、出産。体重わずか528gの赤ちゃんでしたが、眉の生え方、小さな口など夫にそっくりの男の子。分娩後は、元気に生まれた赤ちゃんと同じようにカンガルーケアをさせていただき、夫と私と赤ちゃんの3人での時間をゆっくりと過ごさせていただきました。

 そしてしばらくしてわが子に会うと、なんと助産師さんが手で縫ってくださったぴったりの産着を着ているのです。白い箱には10㏄ほどのミルク、折り紙で折ったやっこさんや鶴も入れてくださいました。それから、赤ちゃん誕生には恒例の足型スタンプ。4cmほどの小さな足でしたが、この足でポンポンとお腹を蹴ってくれたのだと思うと、涙が止まりませんでした。オギャーと泣かないこと、そしてママのおっぱいを飲まないこと以外は、元気に生まれた赤ちゃんと同じように病院での時間を過ごさせていただきました。

 助産師さんが言ってくださった「天国の赤ちゃんはずっとママのそばにいるからね」という言葉に救われ、私はその子が生き続けていると信じることができました。そして今、再びお腹に赤ちゃんを授かり、来月には出産する予定です。あの日があったからこそ分かる命の重み。これからもずっと一生、天国にいる赤ちゃんのこと、病院で私を支えてくださったスタッフの皆さまのことは絶対に忘れません。

 本当にありがとうございました。

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最後のおやつ
槇 尚子さん・東京都

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 優秀賞
最後のおやつ
槇 尚子さん・東京都

 無類の甘党だった母は和菓子が大好物だった。人生最後の食べ物は何がいいかと家族で盛り上がったことがあった。焼き肉やおすしなどが出た後で、母は「あんこ」と言った。もう臨終のそんな時にはあんこなど欲しがらないだろうとみんなは言ったが、母は、「口を開けてあんこを入れてくれればそれでいいの」と言い張った。

 それから何年もたった。6人もいた家族が、母と私の2人家族になった。静かになったわが家で母は昼間は1人だった。お菓子というものは、誰かがいてこそ楽しく食べられるものらしい。1人で過ごす日中にいろいろとお菓子をそろえておいたが、年老いた母はめったに手を付けなかった。その代わり夕食が終わると、「さあ、お茶にしましょう」と私を促した。お茶とお菓子、これが2人の夕食後のぜいたくなひと時となった。

 母の最期の場所は病院だった。10回の入退院を繰り返した母はようやく武蔵野の静かな地を与えられ、最晩年を過ごしていた。長くないことは誰の目にも明らかだった。すでに食事はできなくなり、点滴だけで生きていた。ある日、看護師さんに「お母さんのお好きなものを食べさせてあげませんか」と言われた。

「分かりました。明日持ってきます」と私が用意したのは、水ようかんだった。

 母はすでに息と食べ物を区別できなくなっていたので、口に固形物を入れることは大きな冒険だった。しかしいいではないか。あんなに好きだったものをほんの少し舌の上に乗せてあげるだけではないか。水ようかんを崩して崩して耳かきひとさじ分、舌の上に乗せてみた。母は何とも言えない顔をした。それまでうつろだった目で、じっと私を見た。

 母は何にも言わなかった。黙って私を見ていた。誤嚥(ごえん)は起こさなかった。

 人生最後の食べ物。それは水ようかんだった。それから半月後、母は天国へと旅立っていった。

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関森 小都歌さん・京都府

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 優秀賞

関森 小都歌さん・京都府

 「集中治療室」。それはテレビがなく、周りは大半が壁で景色も見えず、今日の天気は晴れなのか曇りなのか分からない場所。しかし、この場所こそが私の生活の場であった。

 私は今から6年前、病に倒れた。集中治療室での入院生活が長期にわたり、私は景色が見えない、何もない集中治療室での生活にストレスを感じていた。しかし、自分で立つことも歩くこともできなかった私にとって「外の景色を見る、外に出て散歩をする」など不可能なことだった。

 集中治療室には一つだけ窓があった。その窓は、スタッフステーションから私の様子を見ることができるように作られた窓であり、私がその窓から見えるのはいつも医師や看護師などが忙しく働いている景色だった。「空が見たい」と思う私にとってこの窓は窓ではなかった。

 ある日、1人の看護師が私の所へ来て「空はどんな色が好き?」と言った。私は「青くて雲一つない空が好き」と答えた。次の日、私がいつも通り起床すると、窓からは医師や看護師の忙しい姿が見えず、空があった。「青くて雲一つない空」が見えた。

 あの看護師は青くて雲一つない空の写真を窓に貼ってくれたのである。たくさんの空の写真をあの窓に貼って私に景色を見せてくれた。感動で涙が止まらなかった。

 私は今、病気を克服し看護師を目指している。そして、今もあの看護師を忘れることはない。外見はとても身長が低く小柄だったが、いつもワックスできっちりと固めたお団子ヘアが特徴的で、小柄でありながらも背中は誰よりも大きく見えた。

 あの看護師は私の命を救ってくれたわけでもない。しかし、私の心に手を差し伸べてくれたのである。私もあの看護師のように真っすぐに患者に手を差し伸べられる看護師になりたい。「青くて雲一つない空」のように真っすぐな看護師に…。

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指切りげんまん
斉藤 五百子さん・北海道

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 入選
指切りげんまん
斉藤 五百子さん・北海道

 春も終わりに近づいた18年前、父が病に倒れました。病院へ向かう途中、「父さん、もうこの景色見れないなあ」とつぶやいた父を「何言ってるの!! 変なこと言わないで」と叱りました。父は肺炎でした。私は6歳と3歳の娘を連れ、日々病院へと足を運びました。父は日に日に衰弱し、呼吸は荒く、意識も遠のき、命の灯が消えてしまう不安を覚えるばかりでした。

 そんなある日、真新しい白衣に身を包んだ看護師さんが入って来て、6歳の娘に「○○ちゃんは大きくなったら何になりたいの?」と聞いたのです。娘が「看護婦さんになりたいの」と迷わず答えると、看護師さんは少し考えた様子で、「本当は駄目なんだけど内緒ね」と自分のナース帽を娘にかぶせ、「おじいちゃん、○○ちゃんは大きくなったら看護婦さんになるんだって。かわいい看護婦さんでしょ?」とその姿を見せてくれました。その時ばかりは父も、目を開け、いつもの優しい笑顔で、うんうんとうなずいていました。そして、「おじいちゃんと約束ね」と父と娘の手を取り、指切りげんまんをさせてくれました。

 その後、少しして父は他界しました。成長した娘の夢は変わらず、約束通り看護師になり働いています。現在の娘の姿を見せることはできませんが、あの時、今の娘の姿を見せてあげられたようで、大好きだった父に、最後に一つ、プレゼントができたような気持ちに駆られました。私はあの時の心の看護のおかげで、どんなに救われ、うれしく思い、感謝したか分かりません。あの時の光景を今でも忘れることができません、心からありがとうと伝えたい。

 最後に、娘にも誰かの心に残るすてきなエピソードの残せる、心の看護もできる看護師になってほしいと思っています。

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見える優しさ 見えない優しさ
井上 庸子さん・京都府

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 入選
見える優しさ 見えない優しさ
井上 庸子さん・京都府

 病気のサインは普通の日常にある。3年前、喉の痛みが治らず受診した私に先生がこう言った。「バセドー病です」。その時はまだ通院しながら薬を飲めば治ると信じていたが、2カ月ほど過ぎたいつもの血液検査で再び異常が見つかった。薬による副作用で、白血球の数が著しく減少し、緊急入院となった。

 その時、何よりも先に頭に浮かんだのは保育園に預けてきた3歳の息子のこと…。

 その気持ちとは裏腹に入院3日目の夜、ついに白血球がゼロに近いレベルとなり、発熱。寒気、喉の痛みに襲われ、無菌室での闘病生活が始まった。40度近くの熱が続き、体中汗だらけ。何度も濡れタオルを持って来てくれる看護師さんはいつも笑顔で接してくれた。10日が過ぎ、病状が落ち着き始めた頃、主人に「何が欲しい?」と聞かれ、私は迷わず「子どもの写真」と答えた。まだ会えないと心の中で分かっていた。

 少しの菌でも体に入ると重体となる私の病。病室に届く写真立てなどを看護師さんが一つ一つ丁寧に消毒布で拭いてくれた。

 殺菌というより、大切な物だと分かってくれている手つきに安心感が芽生えた。さらに主人のサプライズ。「もう少ししたら窓から下を見て」。そう言って帰った後、6階の窓から下をのぞくと、手を振る主人の横でじいちゃんと走り回っていたのは、ずっと会いたかった息子だった。

 とても小さな姿なのに、笑い声が耳に入ってくるような気がして涙がこぼれた。日に日に私の白血球は戻り、甲状腺全摘手術を受け、1カ月後には退院となった。

 後日、分かったことがある。私の白血球が戻った日、看護師の方々がナースステーションで手を合わせて喜んでくださっていたことや、主人のサプライズ成功を願い、病室から一番よく見える場所を探して地図を描いてくださった看護師さんがいたと…。私の知らないところでも最大限の優しさがあふれていた。

 あらためて先生、看護師の方々に感謝せずにはいられない。

 〝心からありがとう〟。そう伝えたい。

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豪快な看護
小嶋 美恵子さん・大阪府

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 入選
豪快な看護
小嶋 美恵子さん・大阪府

 3年前、85歳の母が腰の骨を骨折して、寝たきりになった。もちろんオムツ対応で、残尿がたまりやすく発熱する。入院して3カ月、介護施設への入所を断って在宅で介護をすることにした。

 そうなると、尿道に管を入れて残尿を私が定期的に取らなければならない。家に帰れば看護師さんもいない。不安が頭をよぎる。

 病院で、残尿を取る導尿の練習をすることになった。

 初めての練習の日、看護師さんとの約束の時間に行くと、彼女はもう私のことを病室で待っていた。椅子に反対向きに座り、背もたれの上に太い腕を組んでいた。豊満な胸が一番に目に入り彼女の目を見る余裕はなかった。

 開口一番、

 「あんた、ホンマにこんな状態で家に連れて帰るの? 心も体もズタズタになるで」。

 そんな言い方をされても、腹は立たなかった。それどころか、本当のお姉ちゃんに怒られているような温かい感情すら湧いている自分が不思議であった。 

 「家で看取ります」と言うと「しゃあないなあ。教えたろか」。

 導尿の練習が始まった。母の年齢では、肉が垂れ下がって、尿道がどこにあるか分からない。管を持つ手が震える。背中にスーと汗が流れる。

 「もうちょっと右や!そこ下に向けて!」。彼女が叱咤(しった)する。

 「よしゃ! 出た。なかなか根性あるな。OKや」。

 何とか無事に導尿ができて、ホッとしている私の背中から、

 「ええか、つらくなったら、いつでも逃げんねんで!  誰もアンタを責めたりせえへんよ。もしそんな奴がいたら自分でやってみい! と言うたれ! 導尿OK! ハハハハハ」。豪快な笑い。

 弟がいながらいつも一人で父の看取りもした私にとっては、百人力の気持ちをいただいた。

 母も米寿を迎え、時折つらい時は、あの太い腕と豊満な胸と豪快な笑いを思い出す。

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笑って暮らしているよ
澤野 真寿美さん・大阪府

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 入選
笑って暮らしているよ
澤野 真寿美さん・大阪府

 ジャニーズ系の容姿がご自慢だった祐輔は18歳で交通事故に遭った。脳に大きなダメージを負った祐輔に残されたものは命と聴覚と皮膚感覚だけ。

 テニスに明け暮れ真っ黒に日焼けした少年は、静かに沈黙の世界に入ってしまった。遷延(せんえん)性意識障害という。

 事故から13年。たくさんの看護師さんに支えられて今がある。

 衰弱して体重が35kgまで落ち、懸命の看護でやっと40kgになった時、「祐ちゃんが40の大台に乗った!」と拍手してくださった看護師さんたち。20歳の誕生日、ベッドの横にはケーキと看護師さんたちの「ハッピーバースデー」の歌があった。祐輔なりの成人式だった。

 在宅介護に向けて、医療的ケアの方法を細やかに教えてくださったのは若い看護師さんだ。

 4年ぶりに戻ったわが家では、訪問看護師さんは限られた時間の中でバイタルチェック、浣(かん)腸、入浴介助などをテキパキと進めながら、「お母さん、疲れてない?」と家族にねぎらいの言葉を掛ける、まさにプロの仕事ぶりだった。

 そして、今。祐輔は親の手を離れ、医療型施設「ベルデ」で仲間と共に暮らしている。ここには歩ける人は一人もいない。看護師さんと支援員さんのチームワークで重い障害を持った人たちの医療と生活を担う。

 熱や発作にも迅速に処置してくださる。経管栄養だがホールに集まっての食事。夏にはスタッフに支えてもらってプールで泳いだ。クリスマス会ではポンポンを振って車椅子で踊った。バレンタインデーにチョコレートをちょっとだけなめさせてもらって、にこっと笑った祐輔の写真は私の宝物だ。

 命には健常も障害もない。人間として向かい合ってくださる人たちがここにはいてくれる。

 面会に行く車のハンドルを握りつつ、ふと「幸せだな」と思う。

 お世話になった看護師さん、今お世話になっている皆さん、全員にお礼を言いたい。私たち家族はちゃんと笑って暮らしていますよ、ありがとうと。

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「内緒の注射」は思いやりの言葉
花澤 かおりさん・兵庫県

第4回「忘れられない看護エピソード」
一般部門 入選
「内緒の注射」は思いやりの言葉
花澤 かおりさん・兵庫県

 くも膜下出血の手術が成功し、大喜びしたのもつかの間、母は術後2日目に始まった、脳血管攣縮(れんしゅく)の耐え難い激痛で、常軌を逸していた。集中治療室内には、「注射して! 注射して!」と、痛み止めの注射を欲して叫ぶ母の声が哀れに響き、私は逃れようのない現実を直視できずにいた。

 激痛を引き受けてもやれず、掛ける言葉さえ見つけられず、助かったことさえもが結果的に母を苦しめることになったのではないかとまで思い詰め、切なかった。「頑張れ」などという薄っぺらい励ましの言葉は、もはや母には通用しない状態で、私は自身の不器用さを嘆き、途方に暮れるほかなかった。その時だった。「辻さん、痛いなあ。先生には内緒で、次の注射、予定時刻より早目にしよう。内緒の注射するから、もうちょっとだけ我慢してね」

 そう母に語る優しい声の主は、看護師さんだった。その声を聞いた瞬間、私の中から不安は消滅。痛がり続ける母も、途方に暮れる私も、決して孤独ではないのだと思い知った。

 母に語られた言葉は、看護師さんから私への、「安心してください。私たちが、お母さんの痛みと向き合い、全力で支えていきますから、心配いりません」という心強くて、責任感に満ちたメッセージであると確信した。

 でも、「内緒の注射」と聞いて、ちょっと笑ってしまった。医療上、そんなことは断じてできないと私にだって分かる。それなのに、その言葉を聞いた時、うれしくて胸が開いた。

 当然、母には痛み止めの「内緒の注射」はされなかったが、私の心には、安心感と心強さのエキスがたっぷりと詰まった言葉の「内緒の注射」を看護師さんが打ってくれた。

 母は後遺症ゼロで今を生きている。あの時の光景を思い起こすたび、感謝の気持ちがあふれ出し、笑みが浮かぶのだ。