東日本大震災復興支援事業

「協会ニュース」連載

復興に向かって  〜看護の力〜

【第3回(2016年3月号)福島県相双保健福祉事務所(南相馬市)】

福島県の沿岸部に位置し、2市7町3村からなる相双地域。東日本大震災では、地震や津波とともに福島第1原子力発電所の事故により、現在も6町村が自治体機能を県内の他の市町村に移転したままだ。被災者の避難生活も長期化する中、同地域を管轄する相双保健福祉事務所は、県や市町村と連携して住民の健康支援に取り組んでいる。

健康課題を可視化 地域を見る力

同保健福祉事務所の保健師、中島誠子さんは「現在の健康課題は、生活習慣病予防と介護予防対策です。背景には、この地域に特徴的な原発の問題や高齢化率の高さがあります」と指摘する。震災後、避難した住民は子・孫世帯が多く、その後も仕事や学校で避難先に残るなど親世帯との分離が起こった。3世代で避難しても、戻ってくるのは高齢の親世帯だけということも多く、相双地域の高齢化率は2011年3月の25.8%から15年10月には30.3%まで上昇している。自宅に引きこもりがちになり、体重増加や高血圧、うつ、アルコール依存などの傾向を示す住民も増えた。
14年度に着任し、健康福祉部の副部長と健康増進課の課長を兼務する中島さんは、医療保険者の特定健診・特定保健指導などの各種データを用い、住民の健康状態を地図上やグラフで可視化したものを分析した。「避難が長期化すればするほど、保健師活動の中でくみ取れる情報やデータを活用して、いま、地域に何が必要かを見ることが重要になります」と語る。
被災市町村や県の関係各課、各保健福祉事務所で行う「福島県被災者健康支援活動ネットワーク会議」では、県全体の被災者支援の方向性を検討する。15年度、中島さんらは同会議に参加しながら、被災市町村に出向いて聞き取りを実施。最優先課題である生活習慣病対策の中でも、特定健診・特定保健指導の実施主体である市町村で、避難者が広域に分散していることや保健医療部門の人材不足などから、単独でこれらを行うのが難しい事情をつかんだ。
そこで、県庁の担当課や県内の各保健福祉事務所と連携し、住民への特定保健指導の直接支援や、今後を見据えた専門職向けの現任教育研修などを行うことにした。中島さんは、震災当時の前任者や職員たちの活動の積み重ねに感謝しながら「希望する市町村に、全県的に支援できる仕組みづくりができたことは一つの成果」と振り返る。

つながりを築き新たな活動へ

一人一人の住民が住み慣れた地域で安心して生活していくためには、母子保健も含めた地域包括ケアの推進が求められる。いまだ仮設住宅で暮らす人も多い同県では、より丁寧な支援が必要だ。
こうした支援活動で実際に力を発揮する1人に、同保健福祉事務所の保健師、松本ミツ子さんがいる。長年、南相馬市の保健師として活動してきた経験から、県看護協会を通じ、サポート職員として派遣されている。仮設住宅を含む住民宅への訪問や保健指導を行うほか、保健師、看護師などの育成にも関わる。訪問では毎回、きめ細かいコミュニケーションで持病の状態や食事量、生活上の困りごとなどを聞き取っていく。単身者や日中1人になる高齢者など、訪問を心待ちにしている人も多い。
さらなる人材の育成に向け、同保健福祉事務所では15年度、自治体職員を対象に、事例検討と地域診断の研修を行った。また、日本看護協会が事例検討に習熟している保健師などを派遣する支援事業も活用。臨時雇用や他県からの派遣など、さまざまな背景を持つ被災市町村職員の現任教育に取り組んでいる。
今後、仮設住宅の住民の多くは県内各地に建てられた復興公営住宅に移ることが想定される。環境の変化に応じた健康支援やコミュニティーの再構築が、今後の課題だ。「市町村の依頼に応じて活動するだけでなく、地域全体を捉え、ニーズを判断して支援することが保健活動だと思っています」と中島さん。震災を機に強くなった組織や人のつながりを基に、新たな活動に踏み出している。

【第2回(2016年2月号)岩手県立久慈病院(岩手県久慈市)】

岩手県北東部に位置し、太平洋に面する久慈市。東部にある久慈湾の奥部に岩手県立久慈病院がある。同市を含む1市1町2村からなる人口6万861人の久慈医療圏唯一の中核的総合病院として、質の高い医療を地域に提供している。

声掛けで災害時の早産をゼロに

 「東日本大震災の発災時、普段ならば見えることのない高波が病棟から見えました」と田頭浩子看護師長(助産師)は当時を振り返る。地震により、電気などのインフラがストップ。沿岸部の被災者対応や、次の津波に備えて患者さんを高層階へ移動させるなどの業務に追われた。
落ち着きを取り戻した後も、特に気が抜けなかったのは被災した妊婦へのケアだった。仮設住宅での避難生活を余儀なくされ、精神的に不安定になりやすく、正常な経過から逸脱してしまう可能性が高まる。田頭看護師長を含む13人の助産師で、積極的に声を掛けた。また、いつでも相談に応じられる体制を取り、ストレスをため込ませないようにしたことで、早産などの発生をゼロに抑えることができた。

限られた資源の中で安全なお産につなぐ

県北部の周産期医療は慢性的な産婦人科医師不足により、県立二戸病院に集約している。分娩の取り扱いは、2008年からローリスクは院内助産で、ハイリスクは二戸病院へ搬送対応を行ってきた。二戸病院までは救急車で約1時間かかり、また、同地域での分娩経過途中の搬送や切迫早産の件数が増加していることから、搬送のタイミングの見極めや、産婦人科医師との密な連携体制が欠かせない。搬送時は必ず助産師が同行し、道中の急変に対応できるようにしているため、08年から現在まで、搬送時のトラブルは一度も起きていない。
早産などのリスクを減らすため、妊婦健診では、妊娠期間に合わせた保健指導や相談など助産師が個別対応を30分間実施している。さらに、自治体の保健師と協働し、地域住民への安全なお産に関する啓発活動などにも精力的に取り組む。「限られた資源の中で安全なお産につなげるには、一人一人の妊婦さんへの働き掛けが大切です」と外舘幸子総看護師長は話す。

震災をきっかけに地元にU ターン

震災をきっかけに地元の医療機関にUターンした看護職は少なくない。助産師の今野真裕美さんもその一人。卒業後、宮城県内の病院に入職し、NICU(新生児特定集中治療室)に配属された。震災後、慌ただしい日々を過ごす中で、同僚の看護師が被災した地元に転職するという話を耳にした。「自分の故郷であり、被災地に働く場を移すという働き方があることに気付きました」と話す今野さん。生まれ育った場所で働く気持ちが固まった瞬間だった。

その後、「岩手県立病院職員特別募集」に応募し、見事合格して採用第1 号となった。「岩手県人として地域貢献のため、地元で頑張ろうという気持ちで日々の業務に当たっています」と現在の心境を語る。
14年に久慈病院に入職後、ハイリスク分娩は全て搬送という慣れない環境の中で、業務を通じて、安全なお産には徹底した母体管理とリスクマネジメントが必要だということに気付いた。「毎日、新しい発見の連続で、助産師としての仕事の奥深さを学んでいます」
人口の減少に伴い、久慈病院の分娩件数は年々減少している。そこで、助産師職員の技術やモチベーション向上の一環として、昨年度から二戸病院への1カ月間の研修派遣を開始し、年間に取り扱う分娩件数を一定数確保するようにしている。「搬送先での業務を知ることで、違う視点で物事が見えるようになりました。今はもっといろいろな経験をしたいです」と今野さんはさらなる知識・技術の習得に意欲を見せる。
15年度内に、年間約330件の分娩を取り扱う近隣の診療所が分娩の取り扱いを中止することになり、分娩件数の急増が予想される久慈病院。「近隣の医療機関と連携しながら、安全で安心なお産を実践していきます」と外舘総看護師長は意気込みを語る。

【第1回(2016年1月号)南三陸病院(宮城県南三陸町)】

宮城県北東部に位置する南三陸町。津波で甚大な被害を受けた公立志津川病院は、病床機能を隣接する登米市に移し、診療機能を同町に開設された公立南三陸診療所が担ってきた。昨年12月、ようやくそれらが再編され「南三陸病院」として開院した。
35キロメートル離れた病院と診療所、双方の看護部長として奮闘してきた星愛子さんは「自ら考え、動いてきたスタッフの使命感が当院の宝。新病院でも、それぞれの責任を果たしていくことが大切です」と職員をねぎらいながら、今後を見据える。

顔の見える“地域連携”へ

 震災は、人々の暮らしを大きく変えた。仮設住宅の入居者が数年たって体調を崩すケースや、アルコール依存症の住民が繰り返し受診するなどの事例が増えた。慢性疾患を抱えた高齢者も多い。星さんらは、地域医療の砦(とりで)である病院・診療所を支えながら、月に一度はテレビ会議システムを使って、地域包括支援センターや保健センターとこうした事例の検討や情報共有を行ってきた。町の保健師とも避難所での活動を通じて信頼関係を築いている。
副看護部長の高橋るり子さんは「入院機能は登米市の病院、外来は診療所へとなり、組織間で顔の見える関係づくりを意識するようになりました」と語る。入院患者の退院調整では丁寧なフォローを心掛け、看護師や主治医が、町の訪問医や社会福祉士、ケアマネジャーなどとつながり「ご家族が安心できるよう、皆が力を注いでいるのが当院の強み」と言えるまでになった。
震災後、病棟から訪問看護ステーションに異動した三浦純子さんは「はじめは何ができるか不安だった」と言うが、「患者さんが地域に戻るときには、ご家族の介護力を見極めるのがポイント」と、今では一人一人の暮らしに寄り添う頼もしい調整役になっている。

支援を糧に新たな仕組みを築く

震災では、レセプトやカルテなどのデータや書類も流失した。看護部のスタッフはわずかに残った古いマニュアルを手直しし、研修に出て新しい手順書を作成した。教育・ラダーシステムも、主任など中堅メンバーが委員会の中心となって内容を再編。動画を活用した、現場になじみやすい新人教育プログラムができた。
感染対策委員会では、委員が外部の講習に参加し、イラスト入りの手順書やチェックリストを用意。これらを「ベストプラクティス」として、普及に努めている。「震災までは専門性を意識する機会が少なかった」と話す委員の山内ひとみさん。しかし「手順が明文化してあれば業務にも自信が持てる」と、全国から支援に来た医療職に相談しながら手順書を完成させ、院内の指導役を務めるまでになった。
星さんの方針もあり、同院では自らの体験を学会で報告する機会を設けている。三浦さんや山内さんのほか、助産師の齋藤恵美さんも、昨年11月、富山県で開催された日本看護学会学術集会(ヘルスプロモーション領域)に参加。本会が被災地の看護職を対象に行う学術集会参加支援事業の一環として、これまでの実践を発表した。「震災は本当につらい体験でしたが、多くの方に支えられた。そうした方に現状を報告するのも責務ではないかと感じました」と振り返る。当日は多くの看護職と交流を深め、新たな学びを得た。星さんは「いま、当院は世代交代の時期。無我夢中の状況から、若いスタッフたちが自ら院内の仕組みを作り上げていくという姿勢が見えてきました」と語る。
同院の今後の課題は、地域連携や退院調整の充実だ。新病院は、町の保健・福祉を担う総合ケアセンターと一体型の建物。震災を経て強くなった行政や他機関とのつながりの下、人々の健康や暮らしを支える役割を担う。新しい“町の顔”を支える星さんらに、大きな期待がかかる。

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被災地の看護職たち  明日に向かって、ともに歩もう!

日本看護協会では、自らも被災された看護職の方への支援活動を続けています。2012年6月7日には、リフレッシュ支援事業として、全国職能別交流集会に岩手県・宮城県・福島県から119人をご招待しました。その後の懇親会では、本会役員・地区理事、職能委員が合流し、総勢約210人で食事と語らいのひとときを持ちました。

「協会ニュース」2012年6月号から隔月で、自ら被災しながらも、被災地の地域医療・看護を支えてきた看護職たち、本会の復興支援の取り組みを紹介します。多くの困難を乗り越えてきた皆さん、明日に向かって、ともに歩んでいきましょう。

【第4回(2012年12月号)南相馬市立総合病院(福島県南相馬市)】

病床数:230床(現在150床運用)
看護職員数:震災前138人、2012年11月現在114人
平均在院日数:14日
看護配置:10対1

愛知県の助産師、福島へ

 「私に何かできることはないだろうか」。
2011年3月、東日本沿岸部は未曾有の大震災に見舞われた。被災地の映像が繰り返し流れるたび、愛知県在住の助産師、野田みや子さんは胸が締めつけられた。災害支援ナースに登録したが、調整がつかず、派遣は実現しなかった。

それから1年が経過した。福島県の深刻な看護職不足を知り「今度こそ私が行く番」と、勤務していた名古屋市内の病院を退職。愛知県看護協会の助産師職能委員長でもあったことから、県協会会長を通して福島県ナースセンターと調整を進め、2012年9月、南相馬市立総合病院の林薫看護部長との面接を経て、支援が決定。10月から同院の産婦人科病棟に勤務している。愛知県での仕事もあるため、臨時の雇用という扱いで週3〜4日、3月までの予定だ。夫から反対されたが助産師として福島県の役に立ちたいと説得した。

午前中は助産師外来のようなかたちで妊婦健診、計測、母乳フォロー、午後は病棟で、赤ちゃんや産婦のケアなどを行う。震災前は月に平均20件あった出産件数は半分程度になり、7人いた助産師も、退職や産休により5人に減少した。現在は、近隣の公立病院の産科病棟が閉鎖されたため、出向してきた若い助産師2人と、野田さんを含めた計8人の助産師で産科病棟と外来を担う。野田さんは、出向の2人をはじめとするスタッフの相談役なども担っている。

病棟師長の永野真弓さんは「野田さんから、当院の母乳育児指導は全国でも高水準だと言われ、そんな評価をされたことがなかったので、皆、感激して、モチベーションが上がりました」と話す。産婦人科の安部宏医師も「職員の負担が軽減された。助かっている」と信頼を寄せる。

全国の看護職に支援をつなげたい

住まいは南相馬市が提供した市営住宅。電化製品や家具は設置済みで光熱費や食費のみ自己負担だ。野田さんは、自分のような他県に住む看護職が相双地域へ支援に入るための条件として、住宅や生活環境の確保が重要な要素であることに加え、他県からの支援者が働きやすい病院内の環境も大切だと実感したという。「この病院は、支援に来て良かったと思わせる雰囲気がありました」。

県協会の仕事などで愛知県の自宅に戻るときは、仙台でバスを乗り継ぎ、片道11時間かかる。それでも生き生きと南相馬との往復をこなしている野田さん。「夫が『自分も福島にボランティアに行くことにしたよ』と言葉を掛けてくれました」と笑顔で話す。「福島県の看護職のレスパイトになれたら、という思いでやっています。全国の看護職や潜在看護師が『自分にもできるかも』と相双地域の医療施設に来てくれるとうれしいです」。

林看護部長は「当院では認定看護師2人を置くなど、看護の質の向上に努めています。しかし、人材不足の現況では夜勤もぎりぎりの状態で職員が疲弊しています。ぜひ支援をつなげてほしいです」と訴えた。
※福島県への支援をお考えの方は福島県ナースセンターへTEL:024-934-0500

【第3回(2012年10月号)あおい訪問看護ステーション(宮城県)】

事業内容:訪問看護、居宅介護支援
事業所: 2カ所
( あおい訪問看護ステーション/仙台市若林区、あおい訪問看護ステーション富谷/黒川郡富谷町)
職員数:< 2事業所合計> 18人
看護職11人、理学療法士1人、介護支援専門員2 人、事務4 人
利用者数:< 2 事業所合計>
126人(2012年9月時点)

事業所ギリギリまで押し寄せた津波

有限会社あおい訪問看護ステーション代表取締役の小野久恵さんは、2002年に仙台市若林区、04年には黒川郡富谷町に訪問看護ステーションを立ち上げ、地域の在宅看護を支えてきた。東日本大震災では、沿岸部から5キロ離れている若林区の同ステーション付近まで、津波が到達したという。翌日から利用者の安否確認、近辺の避難所の見回りを開始。ライフラインが途切れた状況で、通信手段として一番役に立ったのはラジオだった。

国からさまざまな通知が発出されたが、停電中でインターネットが使用できない状況だったのにもかかわらず、「詳しくはホームページを」と示されていたことにいら立ちを覚えた。こうした経験から、小野さんは、日本看護協会などの医療系団体による、災害時臨時FMの開局を望んでいる。医療機関に必要な情報を繰り返し放送することで、どれだけ施設が助かるか痛感したからだ。

深刻なガソリン不足には、移動用に自転車を3台購入した。その後も訪問看護ステーションは緊急車両として優先給油が認められず、悔しい思いもした。ガソリンスタンドと個別に交渉し、やっと認めてもらえた。避難所では、本会の災害支援ナースが活動し、頼もしかったが、3泊4日の派遣で交代となるため、小野さんらがつなぎ役となるよう努めた。

頭を悩ませたのが、被害状況調査への対応だ。本会だけでなく、宮城県看護協会、日本訪問看護財団、全国訪問看護事業協会、厚生労働省、宮城県、仙台市と、それぞれ重複した内容の協力依頼があった。「精いっぱい、誠実に回答しましたが、正直、負担でした。せめて看護系だけでも一本化できないものでしょうか」と、心情を吐露する。

明日に向かって―地域の連携、新人教育の充実を

震災を経験して、小野さんは「一事業所だけのがんばりだけでは限界がある」と話す。非常時、訪問看護ステーション同士が普段の担当地域を超えて、業務を補い合えるような関係づくりや、医療福祉の連携はもちろん、行政の保健師、民生委員なども加わったネットワークの構築を提唱している。同ステーションでは、知己の医師の厚意で、診療所の地下室で酸素ボンベをストックさせてもらい、ステーションでも点滴をストックするなどの動きも始まった。

新人教育プログラムの充実も今後の目標の一つ。両事業所内で質向上委員会を設け、退職してブランクの長い人や訪問看護の経験がない人でも、3 カ月で訪問看護師として一人前に働けるよう育成中。「災害時にも対応できるように育てるのが最終目標」と前向きだ。

訪問看護の帰り、甚大な被害のあった沿岸部地域の利用者住居跡を訪れた。すべてが津波で流され、雑草が生い茂る中、供養も兼ねて時折、立ち寄るのだそうだ。「事業所の高台移転を勧めてくださる方もいます。でもできませんね。この地で地元の人に助けてもらって、今の私たちがあるのですから」。静かに手を合わせた後、小野さんはまぶしそうに海を眺めた。

【第2回(2012年8月号)栄村役場(長野県)】

入職2年目の保健師が地震に遭遇

長野県栄村は人口2,216人、901世帯、高齢化率45.7%。県最北端、新潟県との境に位置する日本有数の豪雪地帯だ。この小さな村が、震度6強の地震の震源となった。

3月12日、午前3時59分。住民福祉課健康増進係の保健師、森川智佳子さん(25 歳)は下から突き上げられるような振動を感じた。震源の深さ8km、マグニチュード6.7の直下型地震だった。すぐに村役場に出勤しようとしたが、雪崩で地滑りが起き村道が塞がれ、車を出すことができなかった。同地区の職員の車で役場に到着したときは、一部の地区を除く804世帯2,042人に避難指示が出され、村内7 カ所に避難所が設置された。10人が負傷し、約200棟が全・半壊、479棟が一部損壊する大被害となった。その後、3人が死亡し、災害関連死と認定された。

栄村の保健師は3人体制。当時、森川さんは入職してまだ2年目だったが、ベテラン保健師とともに各避難所を巡回し、交代で避難所や村役場に宿直した。やがて心強い援軍が駆け付けてくれた。県の保健師が避難所に24時間常駐し、健康相談に応じた。北信保健所管内の保健師や、長野県在宅看護職の会も、避難所の健康相談や家庭訪問を開始した。

ようやく保健師の通常業務を再開できたのが、約3週間後の4月1日。地震直後から村役場の職員たちは不眠不休で対応し、疲労は極限まで達していた。「住民の皆さんはもちろんですが、職員たちの健康を守るのも私たちの仕事です。それが十分にできなかった。大きな反省課題です」。

避難所や仮設住宅での健康支援

被災住民の健康課題も、時とともに変わる。避難所生活では、東北沿岸部と違い、周囲から食料など物資の支援は恵まれていたが、農地に亀裂が入るなどしたため、農作業ができず「何もすることがない」と嘆く高齢者も多かった。運動不足から生じるエコノミー症候群や体重増加、便秘などの症状も見られたという。また、避難所はプライバシーが守られない。人に見られたくないからとインスリン注射を自己判断で中断した人もいた。

今なお、仮設住宅で暮らす村民のうち、半数近くが65歳以上の高齢者だ。森川さんたちは月に1度の訪問で、健康相談や血圧測定などをするほか、仕事の合間を縫って、訪問する時間を作るよう心掛けている。熱中症予防に寒暖計を配布するなどして回り、声を掛ける。

栄村で生まれ育った森川さんは、高校生のころから村民の健康を支える保健師になるのが夢だった。今もその思いは変わらない。「栄村は、四季折々の自然や温泉に恵まれた美しいところです。たくさんの人に観光に訪れてほしい」と復興に向けて歩むふるさとを支え続けている。

【第1回(2012年6月号)】

看護職対策と今後の支援について議論

5月30日、「第1 回東日本大震災被災3県の看護職確保支援のための合同会議」がJNA ホールで開催され、本会からは小川忍、井伊久美子、福井トシ子の各常任理事が出席しました。また、オブザーバーとして厚生労働省医政局看護課より4人が参加しました。

岩手県、宮城県、福島県看護協会の役員やナースセンター職員が、各県の医療機関・福祉施設などでの看護職員数の増減や、ナースセンター・行政における看護職確保支援の現状、看護師学校養成所や新卒者の状況について発表。「沿岸部は、もともと看護職員の確保が困難。震災でさらに看護体制の維持が厳しくなった」(岩手・宮城)、「避難せず、人員不足の過酷な労働環境下で、県内に留まり頑張る看護職に、直接的なインセンティブがほしい」(福島)といった意見が寄せられました。長期に支援できる人材と、その住居の確保といった生活基盤の整備、ナースセンターのマンパワー不足対策も課題として挙げられています。

井伊理事は「看護職確保対策は、これまで病院が中心だったが、地域や在宅を外すことはできない。これからは、地域に密着した、その後も地域の資源となる看護職確保対策を考えていきたい」と結びました。

被災した看護職のためのリフレッシュ懇親会

6月7日には、千葉市内のホテルで「被災した看護職のためのリフレッシュ懇親会」が開催され、岩手県30人、宮城県49人、福島県40人の計119人が参加。これは、日本看護協会の東日本大震災復興支援事業として、被災地の看護職を会員・非会員問わず、全国職能別交流集会に招待したものです。

本会の坂本すが会長は「今日は皆さんの笑顔に会えて安心しました。当時を思うと涙を抑えられません。大丈夫、私たちが付いています。前を向いて進みましょう」とあいさつしました。続いて、兼田昭子会長(岩手)、上田笑子会長(宮城)、高橋京子会長(福島)が、震災後の1 年を振り返り、被災地の看護職たちの頑張りをねぎらうとともに、本会の災害支援ナース派遣や支援活動に感謝の意を述べました。

日本声楽家協会ソプラノ歌手の京島麗香さんによる歌と音楽の夕べでは、参加者全員で『上を向いて歩こう』を合唱。参加した看護職からは「思いはみな同じ。復興に向けて頑張っているところです」「看護協会の支援に感謝しています。会員でいて良かった」といった感想が語られました。