地域包括ケアにおける看護提供体制の構築

助産師の歴史

第6回(10月2日)お江戸の産婆

連載の冒頭、その昔、”助産師は、産婆と呼ばれていた”と、紹介しました。
今回は、その産婆、助産師の歴史を散策してみます。お付き合いくださいね。
人類の歴史の中で、お産は長い間、多くの文化圏において、妊産婦の親族や周囲の女性たちによって取り上げられ、伝承されてきました。
女性が命をかけて、次の命をこの世に産み出すための”お産”の介助は、単に「産ませればいい」のではありません。母子共に安全で健やかに経過すること。
そして、生まれてからも、その命がいつくしみを持って育てられるように支援することが大切です。
そのためにも、周囲から妊産婦への絶え間ない励ましと、迅速で適切な対処が必要とされるのは、今も昔もかわりません。
お産の介助を行う産婆は、その役割の大切さから、日本でも早くから専門的な知識を認められ、女性の専門職としての地位を獲得してきました。
産婆と呼ばれるようになったのは、江戸中期と言われており、江戸時代初期には、「取上婆」「子とり」とも呼ばれていたといいます。
更に歴史をさかのぼると、平安時代にも中宮や女御のお産のときに、背後から腰部を抱き上げるようにして補助する女性たちを「腰抱」などと呼んでいたという記録も残っています。
江戸時代、産婆は経験の蓄積を元に、妊産婦の世話・指導・相談、新生児の世話、分娩の介助をはじめ、産科手術までこなすなど、様々な役割を担っていました。
人々からの信頼も厚く、頼りにされ、”お産の専門家”としての立場を確立していきました。もちろん、今のような教育機関があったわけでもなく、国家試験もありませんでしたが、経験を積んだ産婆は、世間から大変、重宝がられておりました。
江戸時代、大名行列を前にしても、「お産がある」というと、大名行列を横切ることを許されていたという逸話まで残っています。
どんなにエライお殿様でも、「命」と「命を取り上げる産婆」の前では、特別な計らいをしたなんて、とても人間的でロマンのあるお話ですね。「さすが武士道」といいたいところ・・・ですが、人類の発展を思えば当然の計らい。
むしろ、先見性が求められる為政者だからこそ、次世代を担う命と、その命を預かる産婆に、真摯な計らいを講じたのではないでしょうか。
それに、お殿様も侍も、産婆に取り上げてもらっていたのかも知れませんからね。

第7回(10月16日)明治の産婆―専門職として確立した時代

明治時代、近代国家として出発した新政府の富国強兵策や人口・衛生政策によって、産婆の歴史も大きな転換点を迎えます。
明治元年には、明治政府が太政官布達で産婆規則を布告し、堕胎や売薬の取り扱いを禁止しました。
当時、庶民の暮らしは厳しく、堕胎(だたい)や間引き、捨て子、餓死者は後を絶ちませんでした。産婆は妊産婦を幇助(ほうじょ)するために、ときに堕胎等を余儀なくされていたのです。
新政府は子どもを”生産力”と捉え、国や家の経済発展のために育児を奨励していくようになります。
明治7年に発布された医政によって、産婆の資格・役割などが規定され、医師と産婆の業務が法的に区別されていきました。
産婆を教育する方針も示され、西洋医学に基づく本格的な産婆教育が展開されるようになっていったのも明治時代でした。
明治34年には、産婆の資格が法制上明確にされ、専門職としての土台となる制度が確立されます。
西洋医学に基づく新しい教育においては、それまで「胎児を大きくしない」ために用いるとしていた腹帯を、「母体と胎児の保護」を目的とした装着へと変更したり、「胎児の娩出を重視」していた従来の分娩介助から、「母体の会陰保護重視」の導入へ、また消毒や新生児の眼病予防のための点眼がなされるなど、より母親の身体と新生児を守る科学的な視点でのお産へと進化していきました。
産婆たちは、自らの技術の向上と教育を目的として、各地で産婆組合なども結成していきます。
余談ですが、以前、明治中期の産婆の必携書を図書館でみたことがあります。
詳細な記述(正直、とっても難しい!)は、当時の産婆の意気込みと熱意、技術の高さを物語っています。けれども、反面、医学全般において、東洋医学的な考えの「一人ひとりが主体となった癒し」や「バランスを重視する」考え方が失われがちになり、専門家主導になっていったのもこの時代でした。
産婆教育が成果をあげる中、人口政策により全国各地で出産が増加し、正規の産婆教育だけでは養成が間に合わない事態も引き起こりました。
簡単な試験で合格できる制度ができたり、学校を卒業すれば無試験で産婆登録ができるような制度変更がなされるなど、昭和の初期まで資格の三層構造が続く時代に突入します。
産婆は医師と同様に法律的な権利を有する一方で、死亡診断書や死体検案書の作成といった、刑法・民法上の義務・責任を担うようになっていきました。
産婆の重要性は増し、明治以降、第二次世界大戦終戦までは、産婆(助産師)が分娩の9割を取上げるようになっていきました。

第8回(10月22日)大正から昭和初期の産婆

大正時代に入ると、西洋医学を学んだ産婆たちが全国で活躍するようになっていきます。産婆たちも、各地で分娩介助の実績を通して、自らの社会的地位を築きあげていきました。
慢性的な経済不況の中、学力があり向学の志をもった女性にとっては、産婆は憧れの職業となり、志願者も増加していきました。
昭和に入ると間もなく、各府県の産婆組合が連合し、大日本産婆会が結成されます。
会員は五万人にも達したとされ、現在、日本で働く助産師の数を大きく上回る産婆が活躍していたことが解ります。
大日本産婆会のスローガンは、資質の向上のための専門教育の充実と、簡単な応急措置のための注射などを認めること、産婆の団体・組合の長は産婆自身が務めることをはじめとした、真に自らの自治を求めるものでした。
一方で、社会は満州事変から日中戦争、更には第二次世界大戦と、次々に戦争に突入していきました。
“産めよ殖やせよ”の国策は変わらず、産婆の仕事は忙しさをきわめていきました。
太平洋戦争のさなかには、国民医療法が制定され、産婆規則があるにもかかわらず、「産婆」については「助産婦」と改称された名称が用いられ、医師、歯科医師、薬剤師と並び医療関係者として規定されました。
戦時下にあっては、助産婦は十字令書という御用令により、空襲警報がなると「救護所に直行し救護を担当する」という極めて過酷な役割を、強制的に与えられたのでした。
昭和20年には、当時、東京に残っていた全妊婦を貸切電車に乗せて集団疎開させるという役目にも奔走します。
こうした過酷な状況にあっても、助産婦たちは妊産婦の傍らに寄り添いながら必死で働くのでしたが、同年、日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎えます。
敗戦の翌年、戦争放棄を謳う日本国憲法が公布され、平和への道のりが始まったかのように見える中、助産婦たちは、また別の課題に直面することになるのでした。

第9回(10月25日)戦後の混乱と助産婦

終戦を迎えると、焦土の中、類をみない物資不足も加わり、病院機能のマヒが続きました。一方、満州や樺太からの引揚者や、戦地から兵士が帰還したことで、空前のベビーブーム(年間出生数:270万人)が到来します。
その9割以上は自宅分娩ですから、産婆は戦後の混乱にあっても、時代を駆け抜けるように全身全霊で多くのお産を取上げていきました。全国各地で産婆がお産に忙殺されている頃、中央では以後の産婆の運命を変える、大きな制度変更の方針が占領軍(以下、GHQ)によって示され始めていました。
GHQであるアメリカには、当時、産婆の制度がありませんでした(イギリス等のヨーロッパ諸国には、産婆に相当する制度がありました)。当時のアメリカにおいては、お産は病院で行われるもので、自然分娩はむしろ少なく、多くは麻酔と器械を使った分娩でした。アメリカ建国の歴史を振り返ると、こうした医療依存度の高い分娩は、ある面において必然であったのかも知れません。さておき、自国に産婆の制度も歴史もないGHQにとって、産婆の存在は理解できませんでした。忙しすぎた産婆たちにも、また、自分たちの活動や役割、日本固有の文化や歴史的な価値等をGHQに十分に伝えるチャンスも時間もありませんでした。 
一方で、アメリカは、日本の医療と公衆衛生の向上に大きな意欲を持ち、精力的に視察や検討等を行いました。加えて、GHQ担当者は日本の看護制度の改革と併せて、看護師の知識や技術の確保や、社会的な地位の向上、男女平等、女性解放をも、熱意をもって目指していました。そうしたGHQ担当官の崇高で強い使命感が、他国の文化や伝統・習慣への理解や、産婆の役割への洞察を曇らせたのかも知れません。
人間は「自分が正しい」と思うときほど、足元にある大切なことを見落としがちになるのは、洋の東西を問わないということかも知れません。
GHQ担当官は強権を発動し日本産婆会を解散させると共に、産婆と看護婦、保健婦の合同の全国組織を作らせました。また、昭和23年には、保健婦助産婦看護婦法(保助看法)を公布しました。そして、このとき、ついに「産婆」という名称が法律から消え「助産婦」と称されると共に、教育制度も変更され助産婦資格の取得に看護婦免許の取得が前提になりました。こうした、一方的な変更に対し、産婆たちは大いに反対しましたが、時はすでに遅く、GHQの方針が翻ることはありませんでした。
戦後、まもなくすると”産めよ殖やせよ”の政策が一転し、人口抑制(産児制限)が政策課題となっていきました。昭和23年には優生保護法が公布され、人工妊娠中絶が合法化しました。政府は避妊薬の販売を認可し、受胎調節の指導も始めていきます。しかし、女性たちには浸透せず、闇の堕胎等が横行し、次の妊娠・出産に悪い影響が及んだり、時には命の危険にさらされる事態が引き起こされていました。「このままでは、母体が危険だ」。自らの処遇を省みる間もなく、助産婦たちは受胎調節指導の原動力になっていったのでした。

第10回(11月11日)昭和の助産婦、そして平成の助産師へ

助産婦らによる受胎調節の指導や様々な施策により、ベビーブームの後、出生率は急激に下降していきました。加えて、戦後のGHQの指導や、短期間にたくさんの人が都市部に流入したことによる住宅事情の悪化や核家族化など、社会の変化や様々な状況に伴い、自宅で分娩する人が減り、病院や施設でお産をする人が急激に増えていきました。戦前戦後は自宅分娩が9割を占めていたのに対し、昭和35年頃には自宅分娩と施設分娩が同数に並び、以降は急激に施設分娩が増えていきました。
一説には、当時、開業していた助産婦の高齢化に伴い廃業する助産所も多く、施設分娩に拍車をかけたとする見方もあります。助産婦は徐々に、分娩施設等や医療機関で働くようになって行きました。施設や医療施設での分娩が増加するにつれ、それまでは「待つ」分娩であったのに対し、陣痛の誘発や無痛分娩、適応拡大の吸引や帝王切開等、積極的に医療的に介入する分娩が行われるという状況をもたらしました。
一方で、70年代には、日本で妊産婦体操が体系化され、助産婦教育課程にも取り入れられるようになっていきました。助産婦が中心となり、妊婦の分娩の恐怖や疼痛の軽減、積極的な分娩に臨む準備として普及していきました。また、同じく70年代には、夫の立会分娩が言われるようになり、本人や家族の思いとかけ離れないような出産のあり方を見直す機運が高まるようになっていきました。(しかし、そもそも、自宅分娩のときには、日本では一般家庭においては夫や家族の立会はふつうのことであったと語る産婆もいます。)母乳栄養の大切さが見直されるようになったのも同じ時期で、できるだけ母乳で育てられるように桶谷式や藤森式といわれる乳房マッサージ法が助産婦の間で普及し、母子同室制へと発展していきました。
80年代の分娩監視装置や90年代の超音波診断の発達は、子宮内の胎児の様子の把握や、安全な分娩に貢献し、妊産婦死亡率も確実に改善していきました。02年3月には、法律に改訂に伴い、「助産婦」は、「助産師」となり、現在に至ります。近年、助産(師)外来として、病院等の施設内で妊婦健診を助産師が実施する取組みも行われるようになってきました。助産(師)外来では、通常の健診に加えて、助産師と一緒にお産について考えると共に、お産の準備、母乳について、お産後の育児相談など、より妊産婦に寄り添う取組みが行われています。
このように、腰抱き、産婆、助産婦と呼び名は変わっても、いつの時代にあっても、女性にそばに寄り添い、女性を励まし、母親と赤ちゃんの安全・安心を守り続けてきたのが、助産師です。
現在、少子化の中にあって、産科外来や産科病棟の閉鎖が後を絶ちません。妊産婦さんは、産前産後を通じて、入院中は他科の患者さんと同じ病棟になったり、時には同じ病室になるといった状況も起きるといった深刻な事態になっています。そんな現代だからこそ、日本看護協会はその改善に向け、現在、様々な取組みを行っています。
産科外来・病棟に行く機会があったら、「助産師」を探してみてください。きっと、あなたに寄り添ってくれることでしょう。妊産婦に寄り添う。女性に寄り添う。それが営々と受け継がれている”助産師の魂”だからです。

第11回(11月20日)世界の助産師

前回までは、日本の助産師の歴史をご紹介しました。日本以外の国の助産師は、どのような活動をしているのでしょうか。今回はそのご紹介です。
諸外国においても、女性の出産を助けてきたのは、やはり女性でした。ヨーロッパにおいては、紀元前から妊婦の出産を励まし、手助けする女性たちの存在が史実から確認されています。イギリスでは13世紀には、女性の職業として、すでに助産師が存在していたことが解っています。そのイギリスでは、1980年代に妊娠・出産ケアへの見直しがなされ、助産師の価値があらためて見直され、健康な女性の正常な妊娠及び出産においては、助産師が主たるケアの提供者として最もふさわしいとされました。イギリスでは妊娠が判明すると家庭医を受診し、助産師を紹介されます。妊娠中も、妊婦は近くの助産師と家庭医の協力の下で、妊婦健診を受けられるようになっています。
オランダでは、看護師養成コースとは別の教育課程(4年間)で助産師が養成されており、その助産師が中心となった自宅での分娩が残っています。助産師は、市民が望む自宅での分娩という、伝統的で自然なお産を支援しているのです。また、イギリスやオランダでは、助産師の役割・地位も見直され、一定の薬の処方や会陰縫合等の医療処置も助産師が行っています。
このように、同じ助産師でも国によって、教育制度、役割等が異なります。そのため、助産師同士が、国を超えてお互いの知識・情報を交換し、必要な技術・知識の向上を図ることは、世界中の女性が安心して妊娠・出産し、健やかな生涯を過すための支援に欠かせません。現在、助産師の国際的な団体として、国際助産師連盟(ICM)があり、世界98の国と地域から、107の助産師団体が加入しています。

ICMは、世界中の母親、乳児、家族へのケアを向上させるために、助産師の教育を高め、技術と科学的な知識の普及をはかり、各会員協会から自国政府への働きかけを支援し、また、専門職として助産師の役割の発展を推進しています。日本からは、日本看護協会をはじめ、日本助産師会、日本助産師学会の国内三つの団体がICMに加盟しています。現在、その三つの団体が協力し、2015年の夏にICMアジア地域会議を横浜で開催するための招致運動を行っています。アジア各国の助産師と日本の助産師が共に意見を交わし、お互いの現状や実践を学び合うことのできる大切な会議です。来年、チェコのプラハで開催される会議でプレゼンテーションを行い、そこで承認されれば日本での開催が実現します。日本のそして、アジアのママと赤ちゃんのために、日本での開催が実現することを、ぜひ、応援してください。
詳しいことは、こちらをご参照ください。